言葉のオアシス

(「抜粋のつづり」)

言葉のオアシス

 「(ロシアによるウクライナ侵攻に関し)私が最も身につまされるのは避難民の姿である。・・・避難民のほとんどは女性、子供、年寄だ。なけなしのものをリュックにつめ子供達の手を固く握りしめて歩く母親・・・・『これはまさに終戦後、命からがらソ連軍から逃げのびて来た私達一家の姿だった。より惨めな姿だったが。』」(「父の手拭い」という文字が、突然、目に飛び込んできて私は思わず身を正した。
 役人になって4年目の昭和48年、外務省北東アジア課(朝鮮半島担当)に配属になり、地下倉庫で満州や朝鮮半島からの日本人引揚調査記録(手書きで、まさに命からがらの避難民からの聞取り調査記録)を目にした時の衝撃が、「父の手拭い」で蘇ったのだ。
 随想の作者は著名な作家であり数学者の藤原正彦氏。この一文は小冊子「抜粋のつづり」(その八十二」(R5)に収録されていたものである。

 「抜粋のつづり」は、昭和6年に熊平製作所の創業者熊平源蔵氏によって始められた。小学校しか卒業していない源蔵氏は、新聞や雑誌、書籍によって自らの経験の乏しさを補い、その中から感銘を受けた文章をスクラップしていたが、自分だけで読むのはもったいないと思い、「ぜひ、日頃お世話になっている方々に紹介したい」と思い立ち、「抜萃のつゞり」を友人や取引先に配り、戦時中を除き毎年発行され、現在は45万部が配布されているという。

 現代の情報飽和時代、本当に読む価値のある文章を見つけるのは一苦労である。この小冊子は、1年間に読んだ新聞や雑誌などから選りすぐった珠玉のエッセーやコラムを抜粋し、「言葉のオアシス」としてまとめ、毎年、全国の官公庁や金融機関を始め、地方自治体、教育機関、一般企業、商工会議所などに無料配布されている。

 平成9年11月3日 朝日新聞社説は、熊平源蔵氏の活動について、「文化や芸術が常にきらびやかな衣をまとっているとは限らない。むしろ、地味な作業の積み重ねであることが多い。落ち葉は時間をかけて堆肥に変わり、植物を豊かにはぐくむ。・・・滋味あふれる堆肥は、やがてじんわり、人の心や社会に効いてくる。」と。筆者も本当にそうだと思う。

 本年は、熊平製作所創業百二十五周年の記念年。創業者は、日本のものづくりの力で国産金庫(お金を守る金庫)の歴史をリードする傍ら、「抜粋のつづり」という言葉のオアシス(人のこころを守る金庫)を社会に発信していたのではないだろうか。

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 そして今、この日本で、自然災害の脅威からの「命からがらの避難」が常態化しつつある。スーパー台風、極端気象による局地豪雨、洪水、土石流等々。加えて、本年は関東大震災100年の年。これからの安全安心社会づくりは、市民一人ひとりが、「命からがらの避難」手順を身につけておかなければならない時代になったように思う。

(日本市民安全学会会長  石附 弘)